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2020年 12月 2日 [ トピックス ]

No.979:高岡市吉久、国の重要伝統的建造物群保存地区選定へ

高岡市吉久が、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定される見込みとなった。江戸時代、吉久には加賀藩の年貢米を収納する「御蔵(おくら)」が設置されていた。現在も米穀売買や倉庫業により繁栄した家などが軒を連ねる。重伝建地区が3カ所以上ある都市は、全国でも京都、金沢、萩のみ。高岡は国内有数の歴史都市の仲間入りを果たすことになる。

●年貢米を収納する「御蔵」の設置で発展


▲放生津往来の町並み
(写真提供:高岡市教育委員会)

 高岡市北東部、小矢部川と庄川に挟まれた河口部に位置する吉久。選定されるのは、現在の吉久2丁目と3丁目の各一部、東西約430m、南北約330mの面積4.1haで、江戸時代末から昭和30年代までに建てられた切妻造平入の町家が残る。

 吉久は、加賀藩の年貢米を収納する御蔵の設置にあたり、承応4年(1655)、放生津往来沿いに吉久新村が町立てされ、もとの吉久村とともに発展した。それまで吉久の住民は、農業や川漁などを生活基盤としていたと考えられるが、御蔵の設置に伴い、近隣の村々より人が集められ、米の集散地として栄え始めたとみられる。

 吉久御蔵は、砺波・射水平野で収穫された米を伏木港から北前船で大坂や江戸へ売却するための備蓄・流通拠点であり、江戸後期には加賀藩最大の御蔵となった。

 明治期の地租改正で吉久御蔵は廃止されたが、米商(べいしょう)や蔵仲間(くらなかま)と呼ばれる吉久の有力な町民は、米の流通に精通した経験を生かし、合同で米穀売買や倉庫業に進出し、成功を収めた。昭和17年(1942)に食糧管理法が制定され、米穀に加え、主要な食糧の生産・流通・消費すべてが政府に介入されるようになるまで、米商の繁栄は続いた。現在の伝統的建造物は、建築物49棟(主屋22棟、土蔵22棟、納屋1棟、社寺4棟)、祠4件、樹木5件。往時の面影を色濃く残す能松家、有藤家、丸谷家は国登録有形文化財。

 国文化審議会は10月に、高岡市吉久伝統的建造物群保存地区を重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に選定することを文部科学大臣に答申した。今後、国の告示によって正式に決定される。同市では2000年、土蔵造りの町並みが続く山町筋、2012年に高岡鋳物発祥の地として知られる金屋町が選定されている。重伝建地区が3カ所以上ある都市は、全国でも京都、金沢、萩のみ(各都市4カ所)であり、高岡市は国内有数の歴史都市の仲間入りを果たすことになる。

●趣きのある歴史的町並み


▲吉久の伝統的建造物<能松家>
(写真提供:高岡市教育委員会)

 保存地区は、中央を南西から北東に緩やかに湾曲しながら通る放生津往来に沿って、江戸時代から昭和30年代までに建てられた切妻造平入の町家が残り、まとまりのある町並みを形成している。

 敷地は短冊形を基本に、道路に面して主屋(しゅおく)を建て、主屋背面の中庭をはさんで土蔵が建つ。主屋は、真壁造り・切妻造平入で桟瓦葺きを基本とする。正面に、サマノコ(狭間の格子)と呼ばれる格子を設けるものが一般的で、吉久では出格子形式で付いている。市内の町家にみられる格子に比べ、桟が細く、間隔も細かいため、繊細な印象を与えている。大屋根の出桁(だしげた)を登り梁で支える主屋の2階には袖壁を設け、長押、貫を化粧でみせ、白い漆喰壁と対比をなして美しさを醸し出す。2階表側には窓を設けず、「アマ」と呼ばれる収納空間として利用し、吉久特有の表構えを今日まで伝えている。

 高岡市教育委員会生涯学習・文化財課では、「放生津往来沿いの町並みには、江戸後期までに形成された地割、切妻造平入の町家が残り、河口部に栄えた町の歴史的風致をよく伝えています。町並み散歩をお楽しみください。市では、歴史・文化資産を地域のみなさんとともに活かし、将来に渡って住み続けられるまちを目指します」と話している。

問合せ
●高岡市教育委員会事務局 生涯学習・文化財課
TEL.0766-20-1453
FAX.0766-20-1644
https://www.city.takaoka.toyama.jp/


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