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2014年 2月 5日 [ トピックス ]
No.643-2:小竹貝塚 縄文時代前期の人骨、国内最多91体出土
●貝塚はタイムカプセル
小竹貝塚(おだけかいづか)は富山県のほぼ中央部、呉羽丘陵と射水平野との接点に位置する。北陸新幹線建設に先立ち、平成21・22年度に発掘調査が行われ、大規模な貝塚とともに、埋葬人骨や竪穴住居などが出土している。
そもそも貝塚とは何か。それは、人が食した貝の殻が堆積したものだ。貝殻のほか、食料としていた魚や動物の骨、土器や石器なども混じっている。貝殻のカルシウム成分によって、土壌がアルカリ性を保ち、通常の遺跡では酸性土壌で腐ったり、溶けてなくなったりしてしまうような骨、木器などが残る。古の人たちの暮らしぶりを伝えるタイムカプセルといってもいいようだ。
小竹貝塚は、約6,750~5,530年前の縄文時代前期の貝塚で、約1,220年間にわたって形成された。遺跡範囲は東西約150m、南北約200m。埋葬人骨(墓域)、貝層(廃棄域)、板敷遺構(生産・加工域)、竪穴住居(居住域)の区域分けがされていた。貝層では、ヤマトシジミを主とする貝が最大で約2m堆積していた。
墓地として使用されていた貝塚で見つかった人骨は91体と、他に例を見ない数だ。そのうち、男性は35体、女性は18体で、残りは性別不明だった。死亡時の年齢をみると、10代後半から20代の若い男性、生まれたばかりの子どもが多く、厳しい生活環境だったことをうかがわせる。身長を推定できる人骨は男性22体、女性7体あり、男性では165cm以上の、当時としては高身長の人もいれば、154cm前後の低身長の人もいた。女性の平均身長は、縄文時代後・晩期の平均推定身長と同じ148cmだった。
国立科学博物館人類研究部が人骨の細胞の中にあるミトコンドリアDNA(遺伝子情報)を分析したところ、小竹縄文人はロシアのバイカル湖周辺や北海道縄文人に多い北方系と、東南アジアから中国南部に見られる南方系の2系統が混在することがわかった。縄文時代中期以降の系統と遺伝的なつながりを確認することもできた。一方、渡来系の弥生人や現代の日本人に多い型は見られなかった。人骨のさらなる研究により、縄文人がどこから来たのか、ルーツ解明が期待される。
●お洒落をしたい気持ちは縄文人も同じ!?
小竹貝塚からは、埋葬されたとみられるイヌが21体見つかり、縄文人の墓のそばに丁寧に葬られていた。狩猟犬、愛玩犬として縄文人と一緒に生活し、丁寧に扱われていたことを示している。現代のようにペットとしてイヌを可愛がっていたとは驚き。愛犬と仲良く暮らす縄文人の様子が目に浮かんできそうだ。
縄文土器・土製品は約13トン分が出土。関東地方や近畿地方、東北地方で作られたとみられる土器があり、他地域との交流を物語っている。石器は約10,000点出土しており、糸魚川周辺で採取されたとみられるヒスイを使った作りかけのペンダントが発見されている。縄文時代前期のヒスイ製品としては国内で最古級だ。
骨角貝製品(こっかくかいせいひん)では、釣針、刺突具(しとつぐ)、針、装身具など約2,300点が出土。装身具の中には、九州や伊豆諸島以南でしか採取できないオオツタノハという貝で作られた貝輪1点が見つかった。太平洋沿岸の縄文遺跡では見つかっているが、日本海側では初めて。ブレスレットとして、現代人が身に付けてもいいほど、素敵なデザインだ。縄文時代にすでに釣針や針、ブレスレットやイヤリングが作られていたとは驚き。形も現代のものと大差ない。タイの歯が象嵌(ぞうがん)された漆製品もあり、縄文人の工芸の技を垣間見ることができる。当時の女性たちもお洒落をしていたと思うと、親近感も湧いてくる。
富山県文化振興財団 埋蔵文化財調査事務所では、「小竹貝塚では、南方系と北方系にルーツを持つ人たちが一緒に暮らしていたことがDNA分析から明らかになった。日本海側の真ん中に位置するからだろうか。縄文人を語るうえで欠くことのできない重要な遺跡だ。また、広範囲の地域との交流を物語る品々が出土した。日本海側の他の地域の遺物と比較し、小竹貝塚の特徴をより調べていきたい」と話している。
- 問い合わせ
- ●富山県文化振興財団 埋蔵文化財調査事務所
TEL.076-442-4229
FAX.076-433-3797
http://www5.ocn.ne.jp/~maibunji/